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 ブログ  独 り 言 2007


2007.12.04
 PISA

 経済協力開発機構(OECD) は、57の国・地域の 15歳男女 計約40万人を対象にした2006年 国際学習到達度調査 (略称PISA) の結果を発表した。
 これを受けて,各マスコミは, 「ゆとり教育により学力低下」 の論調を一段と強めているが,根底に 「日本人は優秀でなければならない」 という 「神国日本」 にも似たおごりがあるような気がして,素直に同調できない。
 学力が無いよりはある方が良いに決まっているが,私がもっと重要な問題だと思ってい るのは, 「意欲のなさ」 である。
 若者が自分の将来に魅力を感じず,将来に向けての意欲を失っていくことは,社会が成 熟していったひとつの証でもあり,かつてアメリカにヒッピーがあふれたことと同因である。反対に, 発展途上のアジアの国々ではその多くが上位に集まっている。
 「学力低下」 だけでなく 「意欲のなさ」 までが 「ゆとり教育の結果」 だと,強引に結論づけている新聞もあるが,そんな証拠はどこにもない。「ゆとり教育」 がスタートする前から,学力低下や意欲のなさは現れていた。
 私は「ゆとり教育」の信奉者ではない。ただ,「ゆとり教育」だけを悪者にすることで, 問題の本質が見えなくなることを恐れている のである。
 「学力」とは何か という問題も曖昧なままに 「学力低下」 が論じられている。「ゆとり教育」導入の原因ともなった 「詰め込み教育の是正」 はどうなるのか。 「知識だけ持っていても何もできない頭でっかち人間」 でいいのか。等々
 新聞の投稿欄に 「疲れている子ども」 という記事があった。電車で見た小学生は,疲れ果てていて,子どもらしいはつらつさが ないと言うのだ。これなど,教育以前の問題であり,これこそ,最も深刻に考えなければならない問 題だと思うのだが。


2007.11.13
 道徳教育の教科化

 マスコミは,教育再生会議が,道徳教育の充実のために「道徳」を「教科」とすること を提言し,中央教育審議会が「教科にはなじまない」として,教科化の見送りを決めたと伝えている。 もっともなことである。
1 現在の道徳教育について
 現在の道徳教育がどのように行われているかは,一般にはあまり知られていない。
 簡単に言うと 「道徳教育」は学校の教育活動全体を通して指導するもので,その集 約をするのが「道徳」の時間である。 けっして「道徳」の時間だけで道徳教育を行うものではないとしている。そのため,「道 徳」の時間は,子どもと最も多く接し,最も良く理解している学級担任が指導することになっている。  
 現在の「道徳」の時間の問題点は,指導者の技量にも依るが,授業で扱う内容と,現実 とのギャップに 「しらけ」 てしまうことだ。
 道徳の時間に扱う「徳目」には色々あるが,例えば「公共の福祉」を扱う教材で,いか にその大切さを説いても,「自分だけ良ければいい」という自己中心的な人間が身の回りにあふれて いると,「しらけ」てしまうのである。
2 道徳教育は学校だけではどうにもならない
 文科省が直接に管轄できるのは「学校」であり,そこに注文が集中するのは分かるが, 社会が変わらない限り,焼け石に水の感はぬぐえない。
 子どもの 道徳観の醸成 に最も深く関わっているのは,言うまでもなく 「親」 である。親が自覚しているかどうかにかかわらず, 基本的に子どもは親を見て親のまねをして育っていく。 成長すれば,親を批判的に見られるようになるのだが,そうなったときには,子どもの道 徳観はほぼできあがっている。正に 「三つ子の魂百まで」 である。
 親は,子どもが小さいときに, 「良いこと」 「悪いこと」 の区別をしっかりと教える必要がある。これが「価値判断の基準」になっていくのである。 小さい子どもに「嘘も方便」を教えてはいけない。こうすると,価値判断の基準ができないままに大 人になってしまう。
 昔の親たちは, 善悪の基準 だけは厳しく教えていたように思う。 自分は適当に生きていたくせに,子どもにだけは厳しくしていた。 でも,これが正解だったのだと思う。
 今の親たちは優しく物わかりが良いが,実は,自分自身の 価値判断基準が曖昧なために,周囲に迎合しているだけに過ぎない のかも知れない。
3 マスコミに規制をかけることは絶対に必要
 幼児期から児童期,成年前期の子どもに大きな影響を与えるものがもう一つある。それ は, マスコミ だ。日本のマスコミの活動はまさに自由そのもので,表現の自由と言う観点からすれば, まさに理想的な状態だ。しかしその一方で,青少年への悪影響についても 野放し状態 だ。猥褻画像や暴力場面についても,制限されるのはごく過激なものに限っている。
 特に問題なのは, TVの影響 である。TVで人気のある 「お笑い番組」 にも大きな問題がある。学校で 「いじめ」 が大きな問題となっているが,TVの中では弱いものをいじめて笑いものにする番組が高 視聴率を上げている。これを見ている子どもたちは 「ジョーク」 といいながら,いじめの自覚もないままに 弱いものをいじめている。
 TVの番組制作者側に 「自覚を」 といっても,全く無駄である。なぜならば,彼らは 「視聴率」 という経済的価値に命を懸けて仕事をしているのだから。
 最もいいのは,社会のモラルが高まり, そう言う番組を見なければいいのだが ,そんなことができるくらいならば,こんな問題は起きない。
 次善策として考えられるのは 「規制」 である。「規制」と言う言葉を出すと, 「文化人」 と称する人類が,異口同音に反対を唱え出す。「であるならばどうすればいいのか」と彼 らに問いたいのだが,彼らは理想論ばかり振りかざし,具体的な提案を聞いたことはない。
 政治の動向を見ても,選挙の結果を見ても,マスコミの影響は「恐ろしいほどに」大き いのだ。


2007.10.17
 perl

 60の手習いで,今 「perl」 を勉強している。  私とプログラム言語との付き合いは, FORTRAN に始まる。その後,ご多分に漏れず BASIC をやり,現在は VB を使っている。幾度か にも挑戦したが,これは素人が使うものではないとの結論を得て,諦めた。
 おかげさまで,大きな抵抗感も無く,理解できている。しかし,脳が硬くなっているの は疑うべくもなく,記憶したと思っていることが,全く頭に入っていないことも多く,苦労している。
 perl(パール) と言っても真珠 (pearl) ではなく, Practical Extraction and Report Language の略で, CGI を記述する言語の一種である。
 ホームページ上で,アクセス制限をかけたり,メールフォームを動かしたりするために は,どうしても CGIプログラム を作る必要があり,以前から学びたいと思っていたものだ。
 ネットで「 10日でおぼえる perl 入門講座 」と言う本を購入し,実行しながら読み進めている。 「10日間」 でマスターするのはとても無理だが,簡単なプログラムは組めるようになった。メールフ ォームを作成し,勤め先のホームページにUPした。
 もっといろいろなことをやりたいと思っている。


2007.09.25
 季節の変化

 今年の夏はことのほか暑かった。 残暑も厳しく,1週間前には短パンとタンクトップでも汗をかいていたのだが,今朝は薄 い布団を掛けて寝た。年齢のせいか,温度変化には敏感になってきた,と言うより,適応がしにくく なってきたと言うのが正解かも知れない。
 今年の夏の暑さは異常だったというが,私にとっては必ずしも苦痛ではなかった。私は 8月生まれのためか,昔より暑さへの耐性はあった。もっとも,体質的にたくさんの汗をかくので, たくさんの水分をとらなければならなかったが, 汗さえかいていれば快調だった。 たくさんの汗をかくことが暑さへの対抗手段だったのだと思う。
 山登りでもたくさんの汗をかく。そのため,水を多めに持たなければならない。また, かいた汗の処理にも工夫が要る。いちばん良いのは, 着たままで乾かすこと だ。夏などの気温が低くないときにはこれが最も良いが,気温が低い季節や高い山では, 体温低下を招いてしまうので着替えなければならない。
 一方, 寒さ には「恐怖感」を持っている。日常生活では感じることはないのだが,テント泊のときに, 恐怖を感じたことがある。稜線のテント場は夕刻になると急激に冷え込む。持って行ったものを全て 着込んでも温かくならなかった。体調不良で発熱したための寒気だったのだが,このまま震えが止ま らなかったらどうしようと思った。
 こんなことから,登山装備では,水の量が増え,着替えの量が増えることになり,軽量 化の妨げとなっている。 
 北海道の大雪山系では紅葉が始まり,昨日は降雪の便りもあった。本州の山が冬を迎え るのももうじきだ。なぜか,わくわくしてしまう。


2007.07.17
 地震の予知

 中越沖を震源とする地震が発生し,多くの被害が出た。地震が起こる度に 「地震予知」 が話題になるが,地震の発生を予知することはほんとうに可能なのだろうか。
 結論を言うと,現時点では,何時どこでどの程度の地震が起こるかを予測することは 不可能 である。
 私は大学で 地球物理 を専攻し, 地震計の感度測定 を卒論のテーマにした。あれから40年も経ち,その間に研究も随分と進んだが,まだ, 予知の段階までにはなっていない。
 将来的に,地震計の数を増やし,平面的,立体的(地下)に観測網を整備すれば,ある 程度の予測は可能になるだろうが,しかしそれでも, 「何時起こるか」 までは,予測することはできないだろう。
 地下の岩盤に,地殻運動の大きな力がかかると, 岩盤の歪み としてそのエネルギーが溜まっていく。その歪みが限界に達したとき,岩盤が 破壊 されることで 歪みが解消 され,エネルギーが放出される。これが 地震 である。従って,地下の岩盤の 歪み具合 を調べることで, エネルギーの溜まり具合 を推し量り,そのことを基にして地震の起こる可能性を推測することができる。このこと はすでに実行に移されている。しかし,その限界がどこにあり,それを越えるのが何時になるのかは, 地下の岩盤の構造によって大きく異なるため,一律に予測することは不可能なのだ。
 地震による被害を出さないためには, 地震によって倒れない壊れない建物を建て,設備を作れ ばいい。分かっていることだが,これがなかなか難しい。しかし,地震の予知とは異なり, やるべき事ははっきりしている。問題は, 経済的な問題 だけである。
 特に,ライフラインと言われる 上下水道,電気 については,万全の対応が急務である。但し, 都市ガス については,パイプによる一括供給というシステムそのものが,地震の際の安全性から考 えると検討の余地が残る。


2007.07.09
 スポーツ特待生

 高校野球の特待生問題 が,再びマスコミに登り始めた。
 "アスリートの育成" とか "子どもの夢を大切に" とか,きれい事が並べられているが,そんなことばかりじゃない。
 高校野球は,「甲子園」を主催するA新聞社を初め,マスコミにとっては格好の素材で あるから,マイナスイメージはなかなか記事にはならない。
1 「特待生は,一般生徒の授業料で授業を受けている」
 特待生といっても,その分のお金をだれか(学校法人など)が出しているわけではない。 私学は,生徒の授業料や各種補助金で経営されており,もし赤字になれば法人が穴埋めをするが,そ うでない限り,総収入で経営されている。乱暴な言葉だが,表題のような言い方もできるのである。
2 「特待生は私学の広告塔」
 ひとたび甲子園に出場すれば,新聞やTVで学校の名前が連日報道され,知名度は一度 に高まる。もし,同じだけ有料で広告を出したならば,数千万円あるいはそれ以上かかると言われる。 私学経営にとって,甲子園大会は最大の広告効果があるのだ。
3 「私学と公立校の不公平」
 高校生で野球をやっているのは私学だけではない。ところが,全国大会に出てくる高校 は 圧倒的に私学が多い。 私学は,特待生で優秀選手を獲得できるが,公立校ではそのような制度はないから,優秀 選手を集めるのには限界がある。これらが,同じ土俵で戦うのは,どうしても不公平だという気がし てならない。
4 「野球は特別」か
 他の競技では特待生が認められているのに,野球で認めないのはおかしいと言う声を聞 く。一応もっともな意見だが,これも,背景を考えないと簡単には同意できない。高校や中学の部活 動でも,本来サッカー部やバスケット部などと同じに扱われなければならない「野球部」が, 特別扱い されていることが多い。
 野球の頂点には 「プロ」 があり,その経済規模は莫大である。サッカーやバスケットにも「プロ」があるが, 「プロ野球」 に比べてその経済規模は比較にならないくらい小さい。その意味で「野球は特別」なのだ。
 野球少年達がプロを目指して夢を見るのも,そこに経済的成功があることは否めない。 松坂の契約金が100億とか聞くと,そこに夢を抱くのは当然のことだ。
5 野球には金がかかる
 野球部の活動には金がかかるのは事実である。用具費などは他の競技と大差ないが,最 もかかるのが 遠征費 である。野球部は,遠征によって練習試合を重ね,強くなっていく。この経費は全て 受益者(保護者)負担 になる。
 甲子園大会出場 にも巨額の経費がかかる。開会式に参加し,第1試合が大会5日目などとなると,もう悲 劇だ。遠方からの参加になれば,途中帰省することもできず,練習や観光で時間を潰し,旅館に居続 けることになる。
 甲子園大会出場が決定して,学校関係者がまず最初にやらなければならないことは, 寄付集め である。卒業生や地域の商店街を廻り,寄付を募っていく。景気の良いときならいざ知ら ず,不景気の今は,寄付金もあまり集まらない。そこで, 在校生や職員から半強制的に寄付をさせる ことになる。
6 学校教育とスポーツ活動
 スポーツ活動によって,様々な教育効果を得られることは十分に理解できる。しかし, スポーツに「学校教育」と相容れない部分があることも事実である。
 ある国会議員が 「オリンピックで金メダルを取れないのは,学校で勉強ばかりやら せているからである。もっとスポーツをさせないとだめだ。」 と息巻いていたが,これにはちょっと誤解がある。 (こんなレベルの国会議員が多くて悲しい)
 学校教育で行うスポーツは 「学校体育」 の一環であり,決して 「スポーツ選手の育成」 ではない。学校体育の対象は一般の市民であり,選ばれたアスリートではない。トップア スリートを育成するためには,そのような仕組みが必要であり,そこまで学校にやらせようとしても それは無理な話だ。


2007.05.22 
 サマータイム

 経団連と自民党が 「サマータイム」 の導入を推進しようとしている。 
 欧米では何年も前から実施して,それなりに定着していると言うが,何でも欧米をまね すればいいというものではない。 混乱を招くだけで,何のメリットもない制度 だと,私は思っている。
 「仕事が終わった後,日没までの時間が増え,アフターファイブ を充実して使えるようになる。」 というのが表向きの理由だが,優雅にアフターファイブを楽しむことのできる人は,はた してどれくらいいるのか。現実は,勤務時間が終わっても帰宅できず,サービス残業を強いられてい る人がたくさんいる。私の周囲を見回しても,優雅にアフターファイブを楽しめる人は殆どいない。
 この問題に経団連が一役買っているのは,ホワイトカラーエグゼンプション制度と相ま ってサービス残業を合法化しようとたくらんでいるとも疑いたくなる。
 過去にも,終戦直後, 進駐軍の指示 サマータイム(当時は「サンマータイム」と言っていた。) を実施したことがあったが,日本の生活習慣には合わないということで,まもなく中止に なった。
 もう一つ,実施のメリットとして 「省エネ」 を挙げているが,納得できる説明はされておらず,私は,それほどの省エネ効果はないと 思っている。
 最近,錦の御旗のように,なんでもかでも”省エネ”を振りかざしているが,これは, 単なる企業や個人の光熱費の節約の問題ではなく,社会全体のトータルで考えなければならない問題 なのだ。
 例えば,電気自動車も,そこで使う電気は,発電所で石油を燃して発電している。とす れば,石油を燃して電気を起こし,その電気で自動車を走らせるより,エンジンで直接に石油を燃し て車を動かした方が遙かに効率が良い。この方が,限りある資源を有効活用する”省資源”なのだ。


2007.05.22
 五月晴れ

 「さつきばれ」 は, 梅雨の合間の晴れ間 と言う意味なのだが,最近では梅雨に入る前の 「5月」の晴れ間 という意味で用いられることが多い。これは明らかに誤用なのだが,気象庁が天気予報な どで使う「気象用語」に登録されたことから市民権を得て,誤用の方が一般的になってしまった。
 この混乱は, 旧暦5月と新暦5月を混同したこと にその原因があるのだが,そんな例は他にもたくさんある。
 「五月晴れ」を梅雨に入る前の晴天を指すとすれば,梅雨の長雨を指す 「五月雨(さみだれ)」 はどう解釈するのだろうか。
 梅雨に入る前の晴天は,湿度が低く,非常に爽やかなのに対し,梅雨の合間の五月晴れ は,湿度が高く,強烈な陽射しで夏を思わせる天気だ。 両者は明らかに違いがあるのだ が,そんなことはどうでもいいことなのだろうか。
 気象庁も,初めのうちは梅雨に入る前の晴天を 「五月晴れ(ゴガツバレ)」 と呼んで (サツキバレ) と区別していたように記憶しているのだが,自信はない。
 言葉は使われていくうちに変化していくものだが,”誤用”とされていたものが,「み んなが使うからそれで良い」と言われると,何とも釈然としない。


2007.05.21
 ヤマオダマキ 

 我が家の庭に咲いた ヤマオダマキ   (2004.05.27)

 我が家の狭い庭には 「キバナノヤマオダマキ」 がいたるところに芽を出している。ブロック塀の根本や敷石の隙間など,その生命力には 驚かされる。
 長野県の小諸から鹿沢に抜ける途中の地蔵峠から,高峰林道を高峰に向けて少し走ると, 池ノ平湿原 に着く。数十年前,そこで初めてヤマオダマキに出会った。
 八ヶ岳や浅間山塊のヤマオダマキは紫色が薄く,殆ど黄色に見える。そのため,これを 「キバナノヤマオダマキ」 と呼んで区別することが多い。
 池ノ平からの帰路,地蔵峠から奈良原に下る途中,道ばたでその 種子を採取し持ち帰った。 秋に蒔いた種子は,冬が過ぎ春になっても芽を出してはくれなかった。諦めかけていた夏 のはじめ,たくさんの小さな芽を出した。
 その年は花は咲かなかったが,かなり大きくなった。次の年,可愛い花を咲かせてくれ た。それ以来,しばらくはおとなしくしていたのだが,環境に順応できたのか,種子が自然に飛び散 り,増え始めた。
 ヤマオダマキ はキンポウゲ科の多年草で,ミヤマオダマキが高山帯に生育するのに対し,ヤマオダマキ は低山に生育する。
 オダマキ(苧環) とは,紡いだ麻糸を巻いて中空の玉にしたもので,花の形がそれに似ているという。


2007.01.30 
 「女性は産む機械」発言

 失言を擁護するつもりはないが,最近のマスコミの扱いには 嫌気がさしている ので,ひと言。
 「女性は産む機械」と発言したとのことで, 柳沢伯夫厚生労働相 がマスコミからの集中砲火を浴びているが,本当にそのように言ったのだろうか。新聞や TVの画面を注意深く調べてみると,報道されていることと,ややニュアンスが違っているような気 がする。
 新聞では,どの新聞も概ね 「(女性は)産む機械」 と表現している。この ()括弧書き は,直接にはそうは言っていないが,前後の関係からそう解釈できるとして 付け加えられたもの だが,その解釈が正しいかどうかは,読者には判断することはできない。よく言えば 分かりやすくする ため,悪く言えば, 読者の解釈を誘導するため に付け加えられていると思われなくもない。
 新聞は 「真実の報道を使命としている」 といっているが,これが怪しいことはだれもが知っている。 身内の不祥事は隠し,ライバル社の問題には箸を棒のように報道し ている。
 TVやラジオになると,もっとひどい 。『女性は産む機械と発言した柳沢厚生労働大臣は・・・・』 となる。このように言われると,もう,誰でも直接にそう発言したと信じてしまう。原稿 には括弧書きがあるのかも知れないが,言葉になるとその差はなくなってしまう。
 重ねて言うが,私は失言を擁護するつもりはない。しかし,失言を恐れすぎて,原稿に あることしか発言しない政治家,失言を恐れてか,言いたいことは何一つ言わない政治家が増えすぎ ているのも事実であり,寂しいことだ。


2007.01.19
 栃木県立宇都宮東高等学校附属中学校

 先日,栃木県初の 「公立中高一貫校」 の入学者選抜が行われた。
 新聞報道によれば,募集定員105人に対し,966人が出願したという。実際に 適性検査 を「受検」したのは950人で, 適性検査合格者 の中から抽選で入学者を決めるという。
 抽選の導入については様々な論議があるが,受験競争の低年齢化を招かないために,学 校教育法施行規則で, 公立の中高一貫校の中学校では学力試験をしないこと が定められいる。
 つまり,適性検査は, 「優秀な者を選抜する」 のではなく, 「不適格者を除く」 ために行うのだ。栃木県教委も 「これらを踏まえ,抽選をすることにした。順番をつけるのではな く,中高一貫校で学ぶ意欲と適性の一定以上の水準があれば入学候補者とする。候補者全員に入学し てほしいが定員があるので,最後は最も平等で公平な抽選をする。」 と説明している。 
 しかし,発表された検査合格者の人数を見て疑問が残った。受験者950人のうち, 検査に合格したのはたったの182人 だった。なんと, 768人もの受験者が「不適格者」 とされたのである。この学校には, それほどハイレベルなエリートしか入学する資格がないのか 。県教委の説明が,何とも空々しく聞こえる。
 大手の 学習塾担当者 は, 「この適性検査で高い得点を取るためには,塾などで特訓しなけれ ば無理だ」 と言っており,県教委の言っている 「学校できちんと授業を受けていれば十分に答えられる。」 と,真っ向から対立している。
「過度の受験競争,受験競争の低年齢化を招かないように」 配慮されたはずなのだが,結果として,受験競争と受験競争の低年齢化に拍車をかけた形 になっている。次年度の入学者選抜がどのように行われるかは,今のところ未定だが,大きく変わる ことはないだろう。だとすると,入学希望者は競って塾に駆け込むことになるのだろうか。
 学校側にも同情する事情はある。鳴り物入りで開校した学校であり,どうしても「結果」 を求められる。 「結果」 とは,6年後に一流大学へ合格させた人数でのことであり,とすれば,少しでも学力の高 い者を入学させたいと思うのは,学校当事者としては至極当然なことなのだ。
 「結果」は,大学への合格率だけではないだろうなどと言っても,そんな言葉はもはや 通用しないところまできているのか。


2007.01.10
 山スキー

 1月7日〜8日は,爆弾低気圧の通過で山は大荒れだった。悲しいことだが, 週末に天気が崩れると,遭難事故が増える。 週末しか山に入れないという同情すべき事情はあるのだが,山を甘く見てはいないだろう か。生来臆病者の私にはどうしてもそのように見えてしまう。
 特に,今回報道された事故(?)の多くが, スキー(ボード)を利用した人たち だ。近年, バックカントリースキー の人気が高まっているようだが,この中には,安易に 「雪山」 の領域に踏み込んでしまう人も少なくないようだ。
 谷川岳  (2006.04.09)

 昨年4月に 谷川岳 に登ったときも,悪天候のために途中で引き返した私たちとすれ違って登っていく スキーヤー・ボーダー がたくさんいた。中には,ボードを小脇に抱えただけで,何も持たずに登っていくボーダ ーもいた。
 私をガイドしてくれた雪山のベテランが 「これ以上進むのは無理」 と判断して戻ってきたのだから,遭難の危険度はかなり高かったはずだ。
 確かに,スキーやボードは高速で移動でき,危険な場所からの脱出も速い。これは,い つもつぼ足で歩いている私にとっては羨ましい限りなのだが,反面,コースを間違ったときのダメー ジが大きくなることも知らなければならない。
 山歩きでも,山スキーでも同じことなのだが,的確な判断が 自分の命を守り,他に迷惑をかけないこと に繋がる。的確な判断のためには気象や地形,雪の性質などの学習の他に, 「経験」 という学習もまた大切なのだが,命を賭してまでの学習は,私はしようとは思わない。