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 ブログ 独 り 言 2009


2009.11.30  
 事業仕分け

 ”画期的”と言われる「事業仕分け」が終了した。
 今まで,お役所の中だけで行われてきたものを,公開したということは,たしかに画期的なのかも知れない。
 しかし,何となく,
違和感を感じてしまったのだ。
 「仕分け人」と呼ばれる人に,どれだけの権限があるのか知らないが,
偉そうな物言いに,反感さえ感じた。本当に偉い人は,絶対に偉ぶらない。自分を偉いと勘違いした人が,偉ぶるのである。
 ある,女性仕分け人が,激しい口調で関係者を問いつめている様子がTVで映されたが,礼儀をわきまえた「大人」の物言いではなかった。その仕分け人が,あの元宇宙飛行士に質問したときには,180度態度が変わり,これが同じ人間なのかと耳を疑うほどだった。こんな感じを持ったのは私だけではなかったようだ。ある有名なロック歌手が傍聴に来たとき,TVのインタビューに答えて,私が感じたことと同じ様なことを言っていた。
 政治主導で予算を使うと言うのは,原則正しい。しかし,残念ながら,今の政治家に,それだけの
知識と技能と識見のある人が何人いるのだろうか。官僚主導がいけないというが,官僚には優秀な人材がたくさんいる。
 かつての政治で,訳の分からない人が大臣になっても,なんとかやってこられたのは官僚システムがしっかりしていたからでもある。自民党時代の大臣と,今の大臣とどれだけ違うのか,これこそ全く見えてこないから,心配なのである。
 イギリスの例をとり,
「官僚は政治家の言うとおりに仕事をすればいい」というが,名前が売れていると言うだけで国会議員に当選してしまう(これは投票する選挙民の責任なのだが)ような日本の政治家を,イギリスの政治家と同列には思えないのである。もちろん日本の政治家にも優れた人はたくさんいる(と信じたい)が,数の論理のために,そうでない人もいることは間違いない。



2009.10.27
 映画 「沈まぬ太陽」
 中禅寺湖畔の紅葉

 映画「沈まぬ太陽」の舞台挨拶で渡辺謙が号泣している姿がTVで放映された。多くの困難を乗り越えての完成と言うことで感極まったらしいのだが,その「困難」とは何だったのだろう。
 これは
山崎豊子の同名の小説を映画化したものだが,小説が発表された当時から,色々と物議を醸していた作品なのだ。作者は「事実を取材して小説的に再構築した内容」と言っているが,ということは,これはノンフィクションのように見えるが実は「フィクション」なのだと言うことになる。
 賛否両方の報道を(もちろん全てではないが)色々見てみると,問題は簡単ではないようである。登場人物にもモデルがおり,航空会社や,航空機事故も実在している。にもかかわらず,
「これはフィクションです」と言ってもそれは素直には納得できない。
 作品のテーマは,(公式ホームページに依れば)
「30年間,企業の不条理に翻弄されても絶対に諦めなかった男
 仕事とは,家族とは,人生とは・・・
 苦悩する現代社会に投げかける,壮大な人間の叙情詩」

であり,
 大企業という巨象に立ち向かったスーパーヒーローの物語である。
 主人公をスーパーヒーローにするための
「再構築」がかなりあったようであるが,それは小説や映画の醍醐味でもあり,良くある話だ。ただ,穏やかでないのは,そのために「悪者」にされた個人や会社だ。
 物語としてはその方が面白いのだが,やはり当事者としては割り切れないだろう。
 一般的に我々は,小説を読んだり映画を観たりする場合,自分をそこに同化させるからこそ,心が動かされるのである。「単なる作りごと」としてとらえるならば,面白みも感動も半減してしまう。その辺を,作家や映画監督は
巧に利用するのであって,それに成功した作品がヒット作となるのである。
 誰もが知っている大きな事故や事件を題材にしておきながら,作品を面白くするために
創作を加え,「これはフィクションです」と言うのは,やはりフェアーではない。そこには,重大な事故や事件を題材にすれば,それだけ注目度が上がり,出版物の売り上げや映画の入場者数の増加に繋がるという計算が見え隠れする。
 この映画化に当たって,
日本航空からは全ての協力を断られたそうだから,日本航空側の思いもそうとうなものがあるようだ。
 我々にできることは,作品を十分に楽しみながらも,フィクションをノンフィクションと誤解するようなことがないように心することだろう。




2009.10.06
 ツキノワグマ

 10月4日,女峰山へ黒岩コースを登った。早朝の薄暗い時間から登り始め,濃いガスに包まれて,人気のないクマザサに覆われた登山道を登った。クマに遭遇する条件が揃っている。最近この近くでのクマの目撃情報はないのだが,やはり怖かった。熊除けのため,を鳴らし,ラジオをかけながら歩いた。ラジオを鳴らしながら歩いたのは初めてだった。
1 ツキノワグマは絶滅が心配されている
 ツキノワグマは絶滅が心配されている動物である。ニホンオオカミのように絶滅させてしまってはいけない。ツキノワグマは,ヒグマなどと違い人を襲うことはしない,人間と共存できる動物である。
2 ツキノワグマは人を襲わない
 よく,「クマに襲われた」という表現をするが,これは正しくない。彼らにしてみれば,人間と「戦った」のであって,一方的に襲ったのではない。彼らは,自分や子供を守るために人間と戦っただけであり,その責任は双方にある。しかし,クマの力が人のそれより格段に強力なため,「一方的」と誤解されてしまうのである。
3 ツキノワグマは人を襲って食べない
 まず,ツキノワグマは人を襲って食べることはしない。ツキノワグマは雑食性であり,主食は木の実や木の芽である。昆虫などの小動物は食べるが,その肉を食べるために人を襲ったという話は聞いたことがない。これは,北海道に棲息するヒグマや北米のグリズリー,北極のホッキョクグマ(シロクマ)とは異なっている。かつて,北海道の開拓のために山奥に入った人間をヒグマが襲って食べたという話は聞いたことがある。北極探検の探検隊が,何日にも渡ってホッキョクグマに追跡されたと言う話しも聞く。ホッキョクグマにとって,氷の上で動くものはイコール食物なのだ。
4 ツキノワグマと戦わないために
 しかし,ツキノワグマは危険な動物には違いない。ツキノワグマに「襲われた」という事件がかなり頻繁に起こっている。怪我をした人も多いし,場合によっては命を落とした人もいる。どうしたらこのような事故を減らすことができるか。それは,人とツキノワグマが「戦う」場面を作らなければいいのだ。人間がツキノワグマを怖がっている以上に,ツキノワグマは人間を恐れているのだ。彼らは,安全に逃げられると判断すれば,まず逃げる。安全に逃げられないと判断したときに,自分を守るために相手を倒そうとするのだ。
 人も,ツキノワグマも,お互いに相手の存在を感知できないままに近づきすぎ,安全距離を越えてしまったときに,悲劇が起こる。
 お互いに安全だと判断できる距離を越えて近づかないでためには,我々人間にとっては,
周囲をよく観察し,物音に注意し,ツキノワグマの存在をできるだけ早く感知することが必要であり,ツキノワグマに我々の存在を知らせるためには,音の出るものなどを鳴らしながら行動することが必要だ。
5 安全距離を越えて遭遇してしまったら
 不幸にして,安全距離を越えてしまってから相手に気がついたら,できるだけ相手を驚かさないこと,刺激しないことが大切。敵意がないことを相手に分からせ,逃げていかせるようにする。最も危険なことは「キャー」という叫び声を上げることや,写真のフラッシュを焚くことで,これは絶対にしてはならない。叫び声を上げたために襲われたと思われる事例がたくさんある。



2009.09.29
 子供との山歩き

 ハナイカリ(光徳)
 山歩きをしていて,小さい子供を連れた登山者・ハイカーに出会うことがある。若い両親に連れられた小さい子供もいるが,中年の祖父母に連れられた孫の姿も少なくない。
 数年前,ある山岳雑誌が
「子供を山好きにするには」という特集を組んでいたが,子や孫と一緒に山歩きができることは嬉しいことだ。
 私も,若い頃,小さな息子達を連れて山歩きをしたが,経験不足から
かなり無謀なこともやらせてしまった。そのためで山が嫌いになったのか,いま,息子達は山歩きをしてはいない。
 8月のある日,小学5年の長男と3年の次男を連れて,
日光湯元から前白根を越え,奥白根に登り,中ッ曽根を下って湯元に戻ったことがある。朝6時に歩き始めて,帰着したのは夕方6時だった。12時間かかったことになる。今の私ならばこんな無理はさせなかっただろうが,当時の私は,程度というものが分からなかった。
 息子達も,決して自然が嫌いなわけではないのだが,今は都会に住み,わざわざ山に出かけていくことまではしないようだ。
 戦場ヶ原などで,私たちと同年配のハイカーが,小さな孫と一緒に歩いている姿を見ると,どうしても,その子に自分たちの孫の姿を重ねてしまう。孫達とは離れて暮らしているので,会うことも少ないから,よけいに,「一緒に歩けたら・・」と思ってしまうのである。




2009.09.10
 無駄遣いを無くする

 アケボノソウ(2009.9.6戦場ヶ原)
 まもなく民主党政権が誕生する。
 民主党政権のキーワードの一つは,
「無駄使いを無くする」だ。民主党は,主要政策を実施するための予算を,税金の無駄使いを無くすることで生み出そうとしている。
 
無駄使いを無くするということにはだれもが賛同し,このことに異論を唱える人はいない。しかし,何が無駄で,何が無駄でないのかを決めることは,極めて難しいことだ。
 国の財政だけでなく,個人の家計でも,無駄を切りつめる努力はみんなしている。しかし,
無駄かどうかの判断は,その人の生活設計の内容によって変わってくるから,一様ではない。
 私も,ネットを使うために「フレッツ光」を入れているのだが,毎月6000円からの支払いは安くはない。これを「無駄」と思う人もいるかもしれないが,私にとっては必要な支出なのだ。
 民主党は,無駄の一つとして
「八ツ場ダム」を挙げ,その中止を公約した。ほんとうに「八ツ場ダム」は必要ないのだろうか。「必要だ」と言う人もいれば,「必要ない」と言う人もいるが,今までは「必要だ」という考えに基づいて計画を進めてきていた。ところが,政権が変わった途端に「必要ない」と言うことになった。地元住民も,工事関係者も俄には納得できないだろう。やはり十分な説明と保障が必要になる。



2009.08.04
 裁判員制度 2

 昨日(8月3日)裁判員制度による最初の裁判が東京で始まった。マスコミは一斉に報道しているが,どうしても分からないことがある。
 それは,
裁判員は,何を元に(基準に)して刑罰を判断すればいいのかと言うことである。
 日本は法治国家であり,
法律に基づいて刑罰を決めるのが裁判の意義であると思っている。被告人を,「殺してやりたい」ほどにくいとしても,法律が刑罰の上限を決めており,勝手に刑罰を決めることはできない。もし,感情の赴くままに刑罰を決めるとしたら,それは私刑(リンチ)であり,法治国家としては認められない。
 刑罰を判断する場合,絶対に必要なのは
法律に対する専門的な知識であると思うのだが,私を含め,一般人にそれを求めるのは無理な話だ。
 マスコミは盛んに
「一般人の感覚で」と協調するが,一般人の感覚というもの自体,マスコミ等の影響が大きく,確としたものではない。
 まあ,今までの裁判が
「一般感覚から遊離した裁判」という批判をされることが少なくなかったが,それを免れるための単なるジェスチャーなのだとすれば納得もできるが,とすれば,裁判員(候補者も含め)に選ばれた人の犠牲はあまりにも大きい。



2009.06.30
 映画 「劔岳 点の記」

 映画「劔岳 点の記」を観てきた。
 眠くもならず楽しく観られた。
 特に,映画カメラマンとして有名な
木村 大作がメガホンを取っただけあって,画面の素晴らしさは「さすが!」である。
 
木村大作監督は,実写にこだわり,CGや合成は一切使っていないと言うから,雪崩のシーンや,生田信が落ちるシーンなどはどのようにして撮影したのか,驚きである。

 山登りをする者の眼で見ると,細部には「?」の場面もあるが,それは娯楽作品として目をつぶることにする。
 また,ストーリーも,細部の創作はあるが,概ね原作に忠実だ。ただ,テーマが「娯楽作品」のほうにシフトしてしまったため,
「成功を支えたのは家族愛だった」と言う辺りは,物足りなさを感じた。
 
宇治長治郎を演じた香川照之は秀逸だった。実在の長治郎がどうであったかは知るよしもないが,山男の豪快さと繊細さ,寡黙さなど,小説に描かれた長治郎そのものだった。これが香川の代表作の一つになることは間違いない。




2009.06.01
 プロ意識


 その朝は,終業後に職場の飲み会があるので,マイカーを止めてバスで出勤した。
 時々しか乗らないバスだが,いろいろと面白い経験をすることができる。
 私の乗ったバスが,バス停に着いて,待っていた人を乗せてドアを閉めたのだが,
なかなか発車しない。僅か10秒程度の時間だったが,「あれっ」と思った。運転手の様子を見てみると,車内のミラーで車内の様子を確認している。乗り込んできた人が椅子に座ったことを確認してようやく発車した。運転手のこのような行動は,今まであまり見ることがなかっただけに,心にとまった。
 朝の通勤時間帯は,交通も頻繁で,つい先を急ぎたくなるのが人情だし,乗客の気持ちもせわしく,「モタモタするな!」と,心の中で思っている人も少なくないだろう。そういった状況の中で,敢えて安全を優先させた運転は,まさに
「プロ意識」そのもののような気がした。
 翻って,自分はどれだけ「プロ意識」を持って仕事をしているだろうか。




2009.04.12
 小田代原のニッコウキスゲ

1 小田代原にニッコウキスゲ
 最近,小田代原でニッコウキスゲが見つかり,話題になっている。(写真のニッコウキスゲは尾瀬ヶ原で撮影したもの。)
 小田代原は,シカの食害から湿原の植物を守るために電気柵でその周囲を囲んだ。そのおかげで,最近は植生も復元されてきており,確認される植物の種類も増えてきた。喜ばしいことなのだが,このニッコウキスゲは,この一連の変化とはちょっと異なるもののようだ。
もともと,小田代原にはニッコウキスゲは無かった。(無かったと断定することは難しいが,”有った”という記録は環境省でも確認していない。)ここ2年ほどの間に進入してきたらしい。
2 誰かが植えた
 どのような形で侵入してきたのかは,これも確証はないが,”だれかが植えた”ものと判断するのが最も自然な解釈だ。もちろん,鳥などがその種を運んだ可能性は無いとは言えないが,今まで根付かなかったものが急に根付いて成長するかというと,その可能性は極めて低い。
3 特別保護区
 もちろん,小田代原は「特別保護区」なので,動植物の採取はもちろん,移植,放流なども禁じられている。人が植えたものと確認されれば除去することは可能だが,それが確認できない限り簡単には除去できない。
4 植生への影響
 先に環境省は,外来種被害防止法に基づき,生態系や人間,農産物に有害な「特定外来生物」を指定した。ブラックバスオオハンゴンソウなどがそれで,これらの生物は除去することができる。しかし,もちろんニッコウキスゲは有害生物ではないから,原則として除去できない。
 ニッコウキスゲが,小田代原の生態系にどのような影響を与えるかについては,いまのところ全く分からない。影響がないかも知れないし,予想できなかった大きな影響が有るかも知れない。

5 影響がなければ植えても良いのか
 仮に,小田代原が「特別保護区」でなく,植生への影響がないとしたら,植えても良いのか。
 もともと,
ニッコウキスゲはきれいだから,もっと増やせばいいと思っている人もいるかもしれない。このニッコウキスゲを植えた人も,こんな考えを持っている人なのかなと思う。
 仮に,あの「貴婦人」の回りを,満開のニッコウキスゲが取り囲んでいる姿を想像すると,きれいだと思うかもしれないが,それはもう私の知ってる「小田代原」ではない。
 私は,小田代原には小田代原としての
アイデンティティーが有ると思う。これを大切にしていきたいし,もし,それがなかったら,小田代原の魅力は半減してしまう。
6 こんなものも
 中禅寺湖畔の千手ヶ浜には「クリンソウ」で有名な場所がある。この開花時期には,ハイカーがわんさと押しかけ,大混雑となる。今では大きな観光資源の一つとなっているが,かつて,クリンソウの群生は千手ヶ浜には無かったと。ある個人が,ネットを張りシカの食害から守ったりすることで,大群落になったのだが,ハイキングコースに沿って,周囲の樹林帯にも広がり始めている。植生への影響は無いのだろうか心配だ。きれいだから良いという問題ではない。



2009.02.11
 言葉の誤用

 最近,言葉の間違った使い方が気になってならない。
 過日も,冬季国体の開会式選手宣誓で,
「・・・感動を与えられる・・」と言っているのを聞いたが,「与える」とは,あまりにも不遜ではないだろうか。そもそも「与える」とは,目上の者が目下の者に与えるときに使う言葉なのだ。
 
「与える」は,高校野球の選手宣誓でも聞いたような気がするが,高校生ごときに「与えて」もらうものなど何もない。
 某球団にドラフト1位で入団した選手が,自分を
「ビッグ」というニックネームで呼んで欲しいと言っているらしいが,これも,とんだ考え違いだ。本人は,体が大きいから「ビッグ」と考えたらしいが,「ビッグ」には「大物」,「すばらしいこと」と言う意味がある。自分のことを「大物」と呼べとは,思い上がりも甚だしい。まあ,単に言葉の意味を知らなかっただけなのだろうが。
 人の数を数えるときに使う
「○○名」も,軽々しく使うものではない。人数を数えるのは,あくまでも「○○人」と言うべきだ。そもそも「○○名」とは,軍隊で兵の数を数えるときに使った言葉なのだ。人格を無視し,数だけに意味を持った呼び方なのだ。
 自分を含めた集団の人数を「以上○○名,異状ありません」と言うように使うのは,
謙譲の意味を持った言い方で,これはあるだろう。しかし,自分を含まない集団の人数を「○○名」と言うのは,失礼に当たる。
 電話などで,
「○○さんおりますか?」などと言うのは良く聞くが,これも間違った使い方である。「おる」は,謙譲語であって,丁寧語ではない。
 正しくは
「○○さんいらっしゃいますか?」である。身内のものについて「○○はおりますので,電話をおつなぎします。」と言うように使う。
 言葉遣いではないのだが,最近TVで気になっていることがある。グルメ番組などでは,
口に食べ物をほおばったまま「おいひい」などと言うのが当たり前になっているが,私が子どもの頃は「口にものを入れてしゃべってはいけない」と親にしつけられたものだ。マナーは文化であり,マナーが忘れ去られていくことは,文化が消えていくことと同じであり,寂しい。
 歳をとるとグチが多くなると言うが,やはり,言わないではいられない。