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 ブログ 独 り 言 2013


2013.12.17  
 小学校の英語教育

 下村文科相は12月13日の定例記者会見で英語教育改革実施計画を発表した。小学校では,外国語活動を3・4年生から始め,5・6年生で教科として週3コマ設ける。中学校では英語の授業を英語で行うという。
 小学校の英語教育については,いろいろな人からいろいろな意見が出ているが,
「ちょっと違うんじゃないの?」という感じがすることもある。
 小学校で英語を教えるねらいは何なのか。まず,きれい事的に言えば
,「将来,英語を活用して,国際的に活躍できる人を目指す」ことが挙げられるが,はたして,これが義務教育のねらいとして適切なのか。全国民が英語によるコミュニケーション力を身に付ける必要があるのだろうか。日本という国は,四方を海に囲まれ,陸続きの西欧諸国とは置かれた条件が違っている。英語によるコミュニケーション力が身に付いたとして,それを活用できるチャンスはどれだけあるのだろうか。
 確かに,
国を代表する政治家や,企業のトップの英語力の貧弱さは恥ずかしい限りだが,だからといって,国民全員の英語力を向上させる必要があるという理屈にはならない。国民全体が英語によるコミュニケーション力を身に付けたら,素晴らしいことには違いはないのだが,私は,もっと優先すべきことがあると思っている。
 ある少年の話を紹介したい。彼は,3歳から6歳まで,父親の仕事の関係でアメリカで過ごした。父親の転勤にともない,6歳で帰国し,日本の小学校に入った。彼の国語の学力が低かったのは仕方ないことだと思われたが,それ以外の教科の学力も低かった。学年が進めば改善し,級友に追いつくだろうと思われていたが,そうはならなかった。英語での会話力も,使う機会が無かったことで,徐々に失われた。専門的な検査を受けた結果,語彙の数が極端に少ないことが分かった。我々は,頭の中でものを考えるとき,言葉を並べて思考を錬ると言われるが,使える語彙が少ないと,思考も進まないのだという。
 子供が,言葉を覚え始めて,
思考の基礎が形作られるまでの間に,正しい語彙の蓄積を進めてやることが,正しくものを考えることの出来る人間を作るためには,最も大切なことなのだと思う。そのために,正しい日本語をきちんと教えることは,全てに優先する重要な課題だと思う。
 中学校の英語教師の大部分が英語での会話力に問題があると指摘されているが,私に言わせれば,
小学校,中学校を通して,正しい日本語を使える教師も,これまた少ないのである。



2013.10.23
 全国学力調査の結果公表


 奥日光小田代原の「金屏風」<写真と記事は関係ありません>
 全国学力調査の結果の公表を巡って意見が分かれている。
 
私は,公表には反対である。
 なぜかというと,あんな
ペーパーテストごときで,学校教育全体が評価されてしまうのは,余りにも理不尽だからである。
 もし仮に,あのテストが,学校教育全体を評価できるような多面的な内容を持つものならば,私も,その結果は公表すべきであると思っている。その結果を公表することで,学校教育の改善向上に役立つことは大いに期待できるからである。
 しかし残念ながら,あのテストでは,
知的な内容のさらにその一部分しか評価できない。学校で行っているその他の大切な教育活動の結果を無視し,ペーパーテストの結果だけでその学校の教育レベルを評価されたのでは,たまったものではない。
 あのペーパーテストの結果は,スポーツテストで平均値が高かったとか,読書感想文で全国1位になったとか,部活動で地区大会優勝とかと同じレベルのものなのだ。
 あのテストは,平均点を上げようとして,そのための
訓練を行えば,必ず上げることができる。そして,結果が公表されるとなると,当然,多くの学校はそのための訓練に力を入れることになる。高得点を目指すことは決して悪いことではないのだが,そのために,他の活動がおろそかになるとしたら,それは大きな問題なのだ。
 いまでも,学校の指導内容は膨れあがり,指導時間に余裕など無いのが現状であり,どこかに多くの時間を当てれば,必ず,別のどこかにしわ寄せが起こることは眼に見えている。
 結果が公表されれば,何が評価されているかは忘れられ,「全国最下位」とかが一人歩き始める。ある自治体の長が夢中になって「公表」を推進しているのが,結果が一人歩きしている典型である。
 文科省は,教育委員会の判断で公表を認めても良いと発表したが,真剣に教育に向き合い,日々努力している多くの教師が,またいじめられるような気がしてならない。 



2013.10.17
 「道徳」の教科化

 <写真と記事は関係ありません>
 文科省は,学校におけるいじめ根絶のための一つの方策として,学校における道徳教育の充実を進めている。
 学校におけるいじめの問題については,早期発見・早期対処が大切であるということに異論はないが,これだけでは根本解決には成らないと思っている。
 そもそも,
学校は一般社会の縮図であり,学校だけが別世界と言うことはもはやありえない。一般社会において,弱肉強食やパワハラ,いじめが横行しているのを反映して,学校のいじめがあるのであって,これが変わらない限り,学校におけるいじめも根本的に変わらない。
 以前にも,「学校において道徳教育が軽視されている」として,
「道徳」の教科化が話題になったが,具体的には進まなかった。
 私は,学校教育において
「心の教育」を充実させようという姿勢には,基本的には賛成である。しかし,「心の教育」は学校だけで取り組んでも,効果はあまり期待できない。子どもたちが最も大きな影響を受けるのは,親をはじめとする,身近な大人たちなのだから。
 学校における道徳教育について説明するに当たって,まず
,「道徳教育」「道徳」の違いについて理解してもらいたい。「道徳教育」は学校の教育活動全体を通して行う教育活動で,もちろん,教科指導や特別活動,給食指導や清掃活動などにおいても指導されるものだ。一方「道徳」は「道徳の時間」とも言って,教科の授業と同じに1単位時間をとって,指導目標を決め,その達成を目指して指導するものだ。「道徳」も,指導内容などは,他の教科と同じに,学習指導要領で細かく決められている。
 今回「道徳」の教科化と言っているのは,この「道徳の時間」を他の教科と同じように扱おうと言うことなのだ。現行の「道徳」が,他の教科と大きく異なるところは,「評価」が無いと言うことだ。評価が無いことは,子供にとっても教師にとっても「道徳」を軽視する一つの原因になっていることは間違いない。
 しかし,
「道徳性」がどれだけ向上したかを評価することは,簡単ではない。価値観の多様化の時代に,普遍的な道徳観を規定することは,私は無理だと思っている。専門家会議がその辺りを検討しているようだから,その結果を期待して待っている。間違っても,価値観の多様性を狭めるような結論にはなって欲しくない。



2013.10.06
 鳩待峠〜山の鼻間の転落事故


 10月4日から1泊で尾瀬に出かけた。翌5日,その日は朝からかなり強い雨が降っていた。天気が悪いことは予測できたので,朝,東電小屋を発って真っ直ぐに山ノ鼻に向かい,そのまま鳩待峠に出て帰宅する予定だった。カッパのズボンをはき,カッパの上着は着ないかわりに傘を差して歩いた。雨は断続的に強弱を繰り返した。
 山ノ鼻からゆっくりと1時間ほど登ってきたとき,ヨセ沢を過ぎて,ハトマチ沢の少し手前で,木道の右下5m程の斜面に人がいるのが見えた。何か珍しいものでもあって,写真でも撮っているのかなと思って近づいていったが,そうではないことが分かった。
 斜面の下5m程のブッシュの中に2人の人がいる。どうやら,木道から落ちた人を助けようとしているらしい。一人が下にいて,もう一人が木道上にいて下の人とやりとりしていた。
「お手伝いしますか?」と声をかけたが,返事はなく,その代わりに「綱を持っていませんか?」と声がかえってきた。
 私はいつも,120cmのシュリンゲを2本とカラビナを2つ持っている。そぐにそれを取り出し,2本を繋いで下にいる人に渡した。ロープを使って引き上げようとしたらしいが,落ちた人は,痛みがあるらしく,立ち上がることさえできない状態だった。これは,一人で救助するのは無理だと判断して,私も下に降りて行って手伝うことにした。
 後で分かったことだが,落ちたのは御夫婦二人で
山ノ鼻に向かっていた76歳の御主人の方で,奥さんが,木道上で我々の救助を見守っていた。私がそこに着いたとき救助に当たっていたのは,同じく山ノ鼻に向かう若い男性2人組だった。
 落ちた男性には,まず,背負っていたザックを外させたようとしたが,左肩の痛みが強く,左手を動かせない。肩紐のバックルを外すことで,やっとザックを外すことができた。
 右手で近くの木につかまらせ,やっと立ち上がることができた。左手と全身がガタガタと小刻みに震えている。肩の痛みと共に,ショックが大きかったようだ。木道まで引き上げることはできても,負傷者が自力で歩くことは殆ど無理で,その先は私たちだけではどうしようもないことが分かってきた。
 救助中も,通りかかった人は何人も声をかけてくれた。そこで,ここから携帯が繋がったら,救助を要請して下さいとお願いした。その中の一人の携帯が119番に繋がった。負傷者の氏名,年齢,怪我の状態等を知らせ,救急車が来てくれることになった。
 落ちたところを登るのは無理と判断し,少し平行に移動して傾斜の緩いところで,木道に上がるようにした。負傷者は肩を痛めているので,背負うこともできない,仕方ないので,補助しながら自分の足で歩いてもらうことにした。
 何とか,木道まで登ることができた。とりあえず,木道に腰を下ろさせ,休ませることにした。休んでいると,一人の人が上から降りてきて,声をかけてくれた,後で分かったのだが,
竜宮小屋の御主人の萩原さんだった。さすがに事故の対応には慣れており,負傷者を励ましながらも,必要なことをきちんと聞き出し,対応してくれた。これまで救助に当たってくれた二人の人は,もう大丈夫と判断して,名前も告げずに,山ノ鼻に向かって下っていった。
 私たちも,上に向かうことにした。萩原さんに,
「これから上に向かうので,何か連絡することがありますか」と声をかけた。萩原さんは「私も小屋に行かなければならないので,いつまでもここに付いているわけにいかない。上から救助に来られる人がいたらよこすように言ってください。」と。
 鳩待峠に着いて
,鳩待山荘の受付に,事故の概要と,救急車の要請をしたので間もなく救急車が登ってくると言うことなどを連絡した。
 戸倉行きの乗り合いタクシーを待っていると,サイレンの音がして
救急車が登ってきた。救急隊員に,事故の起こった場所,負傷の様子などを伝えてから乗り合いタクシーに乗り込んで戸倉野駐車場に戻った。
 私もそうだが,通りかかった人たちが,見ず知らずの人のために時間を割いて協力し合い,負傷者を救助したと言うことに,満足感とうれしさを感じている。日本人て素晴らしいなと思った。
 ただ一つ残念だったことがある。鳩待峠で,どこに連絡すれば良いのかが分からず,バスの切符売り場の人に話しかけたときだ。途中で怪我人がいるので,そのことを話したいのだがどこに連絡したらいいのかと訪ねたら,「あなたはその人の身内ですか」と言う。「いいえ,通りかかった者です」というと,「身内の人から正式な救助要請が出ない限り,私たちは出動しません。」「救急車の要請が済んでおり,そのことを連絡したいのです」と言ったら,それでは山荘の受付に行きなさい。
 ここで,
「おかしいな?」と思ったのは,身内の者の正式な救助要請が出ない限り動かないと言うことだ。尾瀬だけが特殊な環境なのだとは思うが,通りかかった者の通報だけでは救助にでないというのは,一般登山の常識とはかけ離れている。
 多くの登山者(ハイカー)がいると言うことは,それだけ事故の可能性も高いと言うことだと思う。善意で行動した多くの人の姿に感動した後だけに,事なかれ主義ともとれるこのような対応をされたことは残念でならない。
 写真は,白い帽子が私,黄色のカッパに人が救助に当たった人で,負傷者は,その足下にうずくまっている。





2013.09.24
 小学生の集団登校


  ミヤマアズマギク<写真と記事は関係ありません>
 京都で,集団登校の小学生の列に暴走車が飛び込み,重傷者が出た。
 
事故が起きた場合に,被害が大きくなるから,集団登校は止めるべきだ。
 暴走しない・させないが最善なのだが,車がある限り,暴走する者はいる。とすれば,自衛するしかない。
 20年ほど前に,
暴走車が集団登校の列に突っ込み,多くの死傷者が出たという事故があった。それを受けて,集団登校は止めようという動きがあったのだが,いつの間にか集団登校が再開され,現在に至っている。
 
集団登校では,上級生が新入生などの小さい子の面倒を見てくれるから,低学年の児童を持つ保護者にとってはたいへん有り難い方法なのだが。
 小学生の集団登校は,班長の先導で,10人前後の集団を,自宅近くの集合場所から学校まで連れていくものだ。登校班の編制は,学校の教師が,住所と通学路等を考慮して行い,一般的には,その中の最上級生が班長になる。
 
法律的な責任はないようだが,メンバーを,安全に遅刻しないように学校まで連れていくという大きな責任が,班長には課せられている。言うことを聞かない下級生のために,悩んでいる班長も多い。親や教師の言うことさえ聞かない子供が多い中で,班長の気苦労は大変なことだ。学校や教育委員会は,班長を経験することで,人間的な成長が得られるというもっともらしい理屈で登校班を肯定しているが,大きな問題があることには間違いない。
 1960年に「学校安全会」ができ,学校管理下の事故が補償されることになったのだが,併せて,通学途上の事故も補償の対象とするために,
「通学途上も学校管理下である」と解釈されるようになった。学校は,登下校途上の児童の行動にまで責任を持たなければならなくなった。
 しかし,どう考えても,登下校途上が学校管理下であるという解釈には無理がある。学校は,登下校途中の児童の行動について,指導はできるが,管理することは物理的に不可能だ。
 管理できないのに,責任だけが追わさせるのはなんとも理不尽だ。だから学校は「集団登校」を実施することで,少しでも登下校の様子を掌握しようとしているのだ。
 教育委員会も,学校も,
「登下校は保護者の責任下」と,なぜ言えないのだろうか。こうなると,親としては大変なことになるが,これは,子供を育てるために必要なことの一つで,手を抜いてはいけないことなのではないだろうか。諸外国の例を見ても,日本のシステムは,親を甘やかしていると思えてならない。
 ニューヨークでは,スクールバスが各家を廻って,その玄関で子供をバスに乗せる。もしなんらかの事情でバスに乗せられなかったら,親が学校の門まで送っていかなければならない。ニューヨークという特別な場所だからこのようなシステムが必要だったのだろうが,子供の安全を本当に守りたかったら,こうするしかない。 




2013.09.11
 オリンピック開催決定


 2020年に東京でオリンピックが開催されることが決まった。日本中挙げて祝賀ムードだが,ひねくれものの私としては,素直に喜ぶ気にはなれない。
 
経済が閉塞状態の日本にとって,経済効果が2兆円とか言われており,お金が動く出来事には違いないのだから,喜んでいいことなのだろう。
 違和感を感じるのは,TVなどのマスコミが,過剰反応し,オリンピックを
「国家的事業」として,最大優先で取り組まなければならないと,持ち上げていることだ。
 いつも思うことなのだが,日本人はどうしてこうも同じ考えてまとまってしまうのだろうか。以前の世論調査でも,
東京開催を支持しない人が,3割近くいたはずなのだが,その人達は口をつぐんでしまった。
 確かに,今の日本では,多数の意見に同調しないと,異端者として攻撃される風潮がある。今の日本人は,子供の頃から,みんなと同じことをやらされ,同じことができないと仲間はずれにされ,いじめの対象にさえされてしまった。知らず知らずのうちに,同じ考えをするように仕込まれ,飼い慣らされてしまっているのだ。
 
マスコミの世論誘導は目に余る。そのような意図は無いのかも知れないが,視聴者に受けることを第一に考える結果なのか,どの局も同じ内容,同じ主張になっている。そのことが,結果に於いて世論の誘導になっていることを,放送局が気づかないはずはない。ただ,関東地方の1局だけが,IOCの発表を生中継せず,ショッピング番組を流していたという。私が直接確認したわけではないが,だとしたら,拍手喝采である。
 日本人は,熱しやすくて冷めやすいと言われるが,
それを扇動しているのがマスコミである。福島原発の汚染水漏れは,世界に顔向けが出来ないくらい恥ずかしいことで,一刻も早く,日本中の英知と技術,お金を集めて対処しなければならないことなのだが,いま,その報道に力を入れているTV局はどこもない。公共放送のNHKでさえ,ニュースとして数分間放送するだけである。東京開催決定のニュースを,「暗いニュースばかりの中で,久々に明るいニュース」と言っているが,暗い,「原発災害」などのニュースは忘れてしまっていいともとれる発言で,何とも軽々しい発言で,腹が立つ。
 政府の対応もおかしい。
「スポーツ庁」を作るとか言っているが,もっと先にやらなければならないことがあるだろう。「復興庁」の内容の一部として「福島・原子力災害復興」が挙げられているが,こんな状態だから,対応が後手後手になり,世界に顔向けが出来ない状態になっているのだ。政府は,総理大臣が「安全」を宣言したのだから,原発事故対応に,もっと組織とお金をつぎ込んで,本気になって取り組むべきだ。「東電」ではどうにもならないことは,誰にでも分かることなのだから。



2013.05.31
 橋下氏の発言

 ヒメイチゲ (2013.5.5 戦場ヶ原) <写真と記事は関係ありません。>
 感想を書くのも嫌になる下らない話。要は,発言した人の品性の話。
 世の中には,人がいやがる話をわざとして得意になっている人がいる。人が出来るだけ話したくないことを,敢えて話題にすることで,自分の先進性・優秀性を誇示したがる人。
橋下氏はそんな人なのだと理解してしまった。
 歴史認識云々の話は分からないでもないが,根底には,彼の品性がのぞいている。今までの彼の発言を聞いていれば,さもありなんと思う。
 確かに,他人が隠していること,触れたくないことを暴露するのは,
一種の優越感と快感が伴うものだが,みんなが同じ気持ちでいるわけではない。
 彼は,発言の内容を理解する以前に,ある種の用語に過剰反応が起きてしまい,誤解を生んだと釈明しているが,これは日常では良くあること。頭の切れる優秀な弁護士である彼には,その辺の所は分からなかったはずはないのだけれど,やはり慢心があったのか。
 宴会で,裸踊りをする人がいる。私の周囲には今はいないが,かつて一緒に宴会に参加したことがある。本人は得意満面で裸踊りを踊っていたのだが,不快感を顔に出している人も少なくはなかった。でも,そんな人の存在は気にも留めず,その人たちにも「楽しめ!」と強要する。橋下氏の姿が,なぜかそう言う人とダブって見えてしまった。




2013.04.11
 かじか荘 営業再開


 2月から営業を停止していた,足尾の「かじか荘」の営業が,12日から再開されることになった。かじか荘については,指定管理会社が債務超過を隠して虚偽の決算を報告したことから,指定を取り消し,営業の停止が続いていた。12日からまず,日帰り入浴からスタートさせ,18日からは宿泊も再開する。
 地元にとっては明るいニュースだ。




2013.02.26
 日光市足尾町かじか荘


 日光湯元温泉氷祭に参考出品された「鳳凰」ホテルニューオオタニ平田浩一氏の作品<写真と記事は関係ありません>
 天然記念物「コウシンソウ」で有名な庚申山の登山口に,名湯で人気の高い国民宿舎「かじか荘」がある。ところが,管理会社が,債務超過を隠して虚偽の決算報告をしたということで,日光市は指定取り消しを決め,2月1日から休館となっている。
 「かじか荘」が,旧足尾町の町営宿舎として完成したのは1967年秋。足尾銅山の閉山などで町全体の衰退が懸念された中で,数少ない観光拠点として町民の期待は高かったという。
 1977年には,入り込み客は約4万人に上ったものの徐々に減少していった。泉質は評価されたが,町の中心部から8キロ離れた山中にあり,地理的条件もネックとなったようだ。
 町は経営改善のため、当時33歳だった
町職員の中山英司さんを支配人に登用。1年足らずで黒字経営に転換し手腕が評価された。
 2006年,運営を民間に任せる指定管理者制度が導入されると,町職員を退職した
中山さんの会社「E&KS共和国」が選ばれ管理を任された。
 しかしリーマンショックなどで入り込み客が激減し経営は苦しくなった。中山さんは会社に
自己資産を繰り入れて危機を乗り切った。その後も客数は伸びず同様のやりくりは続いた。市と同社が交わした基本協定によると,債務超過など収益の著しい悪化が認められたときは指定取り消しの理由となる。
 このため、専門家のアドバイスをうけ。税務署へは個人資産を繰り入れた正式な決算書を提出。市へは繰り入れた債権を放棄した形で決算書を提示した。これが虚偽報告として問題化したのだ。
 中山さんが繰り入れた私材は総額で,
約2500万円にのぼるという。住民の間には「自分の金を注ぎ込んで『かじか荘』を守ったのに、なぜやめるのか」との声が高まった。
  旧足尾地区の市民らは
「かじか荘湯友の会」を結成し,営業継続を求める陳情書の署名活動を展開。8日間で298筆を集め,「閉鎖しないで,営業を続けてほしい」と要望した。
 一方,
「足尾町の再生を推進する会」では,指定取消処分の撤回を求め,署名活動を行った。その結果,市内外から797筆を集め,嘆願書として市に提出した。
 日光市は,4月には再オープンさせる方針で,業務委託先を選定中だが,本年度中に選定が間に合わなければ,再オープンが4月以降にずれ込む可能性もあるようだ。
 私は,かじか荘には宿泊したことはないが,庚申山に登った帰りには度々温泉に入り,汗を流し,筋肉をもみほぐした。泉質は素晴らしく,ぜひ一日も早く再開してもらいたい。




2013.02.08
 いわゆる「体罰」


  雲龍渓谷燕岩の氷柱 2004.2.11<写真と本文は関係ありません>
 学校の部活動における体罰問題が問題になっているが,私なりに問題点を整理してみた。
 およそ,学校において教師の係わる「暴力」には,3種類ある。
 一つは,
「体罰」,二つ目は「暴力を用いた指導」,三つ目は,「単なる暴力行為」である。
 「体罰」とは,生徒の行った行為が,社会的に見て「悪」であり,そのペナルティとして身体的精神的苦痛を強いるものである。いたずらをしている生徒を見つけたとき,「こらっ!」と一括し,げんこつで頭をゴツンとやることなどがそれである。
 「暴力を用いた指導」とは,運動部の指導などで,精神面を鍛えるためや,緊張感を高めたり,闘争心を呼び覚ますために,びんたをすることなどがそれである。
 
「単なる暴力行為」とは,反抗的態度をとる生徒に対して,教師がかっとなったりして暴力を振るうものである。
  
「体罰」はその程度により許されるべき範囲があると思う。生徒に一切の身体的接触をしてはいけないとしたならば,効果的な教育の方法は極めて限定されてしまうだろう。出席簿の平らな面で,軽く頭を叩く程度のことは,許されて然るべきであろう。一方,精神的な体罰も問題にしなければならない。クラス全員の前で恥をかかせることは,効果的な指導法の一つであるが,これも,限度を超えたものは,してはいけない「体罰」に当たる。
 
「暴力を用いた指導」は,運動部の指導においては,一般的日常的に行われている。この指導法は,かなりの効果があるから,多くの指導者は他の方法と混ぜ合わせて用いている。しかし,ともすると,指導者の独断でその限度を超えることも少なくなく,問題になっている。運動部の活動は,「勝つ」ことが最大のねらいになりがちであり,これに,精神的な強さを養うという大義名分が加わると,「多少の暴力は良い」と指導者だけでなく生徒や保護者も思ってしまい,暴走が止められない状態になってしまう。
 部活動における暴力行為は,多くの誘因があり,簡単には改善されないだろうが,そのひとつに
「勝利至上主義」がある。かつて,小学校の大会は県大会まで,中学校の大会は地区大会まで,高校以上が全国大会という取り決めがあったのだが,オリンピックでの不振を受けて,「競技力の強化」のためという圧力に,いつしか姿を消した。
 
「単なる暴力行為」は犯罪行為であり,厳重に処罰されるべきである。教師といえども人間であり,かっとなることはあるだろうが,その感情にまかせて暴力を振るうような人間は教師としての資格はない。学校の隠蔽体質がマスコミで話題になっているが,このような教師はかばう必要など全くないから,さっさと止めて貰うべきだ。そうしないと,誠心誠意努力している他の教師まで批判の対象になってしまう。